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4.シンボルやマークは「器」である

マークやシンボルは、それ自体単なる図形であり、一個の造形物に過ぎない。また何が良いマークで、何が劣っているかということは、決して簡単な問題ではない。それは、本来は何ら意味の無いものであり、全く無価値なものなのであってそれに意味を与えるのは、そのマークやシンボルを信奉する人間であり、目的集団なのである。マークやシンボルは、ある意味での「器」(ウツワ)で、始めは空の器のようなもので、それを信奉する人々や集団の行状、実績が良きにつけ、悪しきにつけ、その「器」の中に蓄積されて行くのであって、その結果として、大きな社会的イメージと価値を持つに至るわけで、この価値を蓄積させる「器」としてのマーク、効率良く価値が蓄積するマークやシンボルそれが良いマークであり、良いシンボルということになる。勿論良いマークや、シンボルが育つためにはそれを信奉し、それに思い入れを持つ人々や、集団の情熱や努力に負うところが大きいことは言うまでもない。しかし最初は、いくら「空の器」であるといってもその「空の器」自体に「姿」がある。「姿」がある以上それを見る人間の側に何らかの「意味」を感じさせずにはおかない筈であって、すでにそれは「姿」の情報性である。実際にはその「姿」からどの様な情報が引き出されるかと言うことはそれを見る受取側の人間自身にあるわけで、その人の教養、知識、情緒といった文化性によるものなのである。言い換えれば姿≠フ価値は、その姿の文化性の高さである。
良いマーク、優れたシンボルとは、すでに始めから姿″として高い文化性を持っていなければならない、と言うことである。そしてこの姿≠フ持っている文化としての、情報の内容が、そのマークや、シンボルを信奉する企業がめざすポリシー、イメージと一致することが、絶対に必要条件であることは、言うまでも無いのであるが、実際には、このへんのところは、かなり観念的で抽象的な、領域になってくるが、それを実際の姿≠フあるものに求めるとなると、これはやはり一つの象徴性ということになる。象徴性というものは、誰にも理解できる普遍性を持っていると言うことで、だからといって魚屋なら、魚のマークで良いかと言えば、そうは単純なものでもない。優れた象徴性というものは、これも、いささか抽象的な言い方に過ぎるが敢えて言えば、明瞭であると言うことになろう。これも単に図形がシンプルであると、いったことではなくて、ここで言う明瞭ということは人間の頭の中ヘスムーズに入って行くもの、それも無意識に脳に記憶され易い「もの」を期待してのことである。本来、CIを目標とするようなイメージの内容は殆んどこの無意識の領域で人間に感じられ、記憶されるわけでそのための器≠ナあるマークやシンボルが先づ最初に相手の頭の中へ入っていること、とにかく、器(イレモノ)を先に受け取ってもらうことがどうしても必要なのである。そのためにも、器(イレモノ)は、明瞭であった方が良い。そしてこの「器」にイメージが蓄積され、そのイメージが再びこの「器」の識別によって表へ出て来るわけである。逆に考えれば不明瞭なシンボルには、イメージが蓄積され難いと言うことで、いくら高い広告費を払ってPRを続けても、また、信用を高めるための実績が積まれたとしても姿のCIづくりとしては効率があがらないのである。始めから有名なシンボルやマークは無い。先づ良い素質の種(タネ)を播かなければならない。

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